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zoom RSS 続 ガンディーの言葉

<<   作成日時 : 2012/02/16 13:25   >>

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 社会主義者とはどんな人か
 
 社会主義(ソシヤリズム)というのは美しい言葉である。そしてわたしの知るかぎりでは、社会主義においては、社会のすべてのメンバーは平等である。すなわち一人として身分の賤しい者はなく、一人として身分の高い者はいない。人の体のなかで、頭は体のいちばん上にあるから貴(とうと)く、足の裏は地面に接触するから卑しいなどということはない。人の体の各部分が平等であるように、社会の構成メンバーも平等である。これが社会主義である。

 社会主義においては、藩王も農民も、金持ちも貧乏人も、雇用者も使用人も、すべてが同じレベルに立つ。宗教的用語をもってすれば、社会主義に二元論はありえない。それは完全な一元論である。しかるに、全世界の社会を見渡すとき、二元論または多元論だけがはびこっている。一元論は、それがないためにかえって目立つくらいである。ある人は身分が高く、ある人は低いとされる。ヒンドゥー教徒・回教徒・キリスト教徒・拝火教徒(パールシー)・ユダヤ教徒と序列がつけられている。さらに、それぞれの宗教の間にまで細かい上下の別がある。わたしの考えている一元論においては、多様な様相のなかに完全な調和・統一(ユニティー)といったものがある。

 このような段階に到達するためには、わたしたちは物事を哲学的に考えたり、みんなが社会主義に転向するまでは行動を起こす必要はない、などと言っていられないかもしれない。自分の生活を変えずに演説をぶち、党派を組織し、そして餌物が来れば鷹(たか)のようにそれを捕えようとすることもできる。けれども、これは社会主義でもなんでもない。わたしたちが社会主義を、目指す餌物のように扱えば扱うほど、それは、ますますわたしたちから遠ざかってゆくことは必定である。

 真の社会主義は最初の改宗者をもって始まる。一人でもそのような人があれば、その一の後にいくらでも零を加えてゆくことができるのだ。最初の一は十のもとになり、零の数が加わるたびに、前の数の十倍になってゆくだろう。けれども、もし最初の人が零であれば、言いかえると、だれも端緒を開く者がいなければ、零を何倍しても零は零である。零を書くだけ時間と紙の大へんな浪費になるだろう。

 わたしの言う社会主義は水晶のように透明である。それゆえに、それを成就するには水晶のように透明な手段が必要である。不純な手段は不純な結果に終わる。だから、藩王の首を刎(は)ねたところで藩王と農民が平等になれるものではないし、また同じ方法で雇用者と使用人が平等になれるものでもない。人は虚偽によって真理に到達することはできない。真実な行為によってのみ真理に到達できるのである。非暴力と真理は双生児ではないか? この問に対する答えは、断じて「否」(ノー)である。非暴力は真理に深く食い込んでおり、逆もまた同じである。だからこそ、それらは同じ硬貨の両面だと言われてきたのである。どちらの面も他方から切り離すことはできない。硬貨のそれぞれの面を見てごらんなさい。文字や数字の綴り方は違うだろうが、その価値は同じである。こうした崇高な状態は、完全な純潔なくしては達せられない。身や心に不純なものをひそませるとき、自分の内に虚偽と暴力を宿すことになるのだ。

 であるから、非暴力を信じる誠実で純粋な心の社会主義者たちだけが、インドと世界に社会主義社会を築くことができるだろう。わたしの知るかぎりでは、この世界にほんとうに社会主義と言える国家は一つも存在しない。右に述べたような方法によらずに、そのような社会が存在することは不可能である。
                         
                                              一九四七年七月六日 ニューデリー
                                            『ハリジヤン』一九四七年七月十三日号

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