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zoom RSS 憲法改定論議と私の見方(後編)

<<   作成日時 : 2013/06/20 18:17   >>

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 この稿(前編)の最初の方でもふれたのだが、国民の意識は「護憲」か「改憲」か、というような二者択一の切羽詰った情況におかれているとは思えない。NHKの調査でも「改正する必要がある」と答えた人に重ねて理由を聞いてみると、一番多い(75.4%)のが「時代が変わって対応できない問題が出てきたから」となっている。このようにはっきり答えられるのは珍しいほうで、これは答えが用意されていたからに過ぎない。[他に用意されていた答えは「国際社会での役割を果たすために必要だから」(15.0%)、「アメリカに押しつけられた憲法だから」(8.6%)となっている]。「みんなの党」の渡辺氏は「一度も改正しない閉塞感」を挙げ、政治学者の杉田敦氏はこれを、「政治に対する飢餓感」と表現している。

 自民党や「維新」が言う「占領軍に押しつけられた憲法」という点にもふれておかなければならない。日本は1945年8月15日に天皇が、「ポツダム宣言」を受諾することにしたと国民に報告し、同9月2日に降伏文書に調印した。これにより正式に終戦を迎えた。「ポツダム宣言」は戦争指導者の永久追放、軍隊の解体、民主主義の復活、言論、宗教、思想の自由、基本的人権の尊重を条件としていた。だから、憲法の中にこういう要素が盛り込まれるのは当然といえる。したがって、日本側から出された憲法草案がこの条件に合致しない場合には、書き直しを命ぜられるのもしかたがないことなのだ。それでも、日本側から強く要求された天皇の存続を、アメリカは日本支配の観点から受け入れることにしたのである。ただし、その交換条件が沖縄なのであった。
 「ネット」で、面白い文章を見つけた。《近代憲法は、国民から権力者に向かって「押しつけられるもの」なのです。(中略)日本国憲法の場合は、時の権力者に憲法を押しつけるにあたって、国民を手助けしてくれたのがマッカーサー草案だった、と考えればいいのではないでしょうか。その憲法によって、私たちの人権が守られているのですから、国民の側がそれを「押しつけられたもの」と考える必要は、まったくありません。》という文章である。実に明快ではないか。

 さて、この国民の不安定な意識、それは日本を取り巻く情勢と日々の暮らし向きにその原因がある。対外的には北朝鮮のミサイルと核保有、拉致問題の未解決、中国や韓国との領土・領海をめぐる争い、日本の右派政治家の歴史認識に対する中、韓両国の反発、こういった周辺諸国との軋轢は当該国との交流、貿易に支障をきたし、不安感を醸成する。足元の暮らしを見ると、大卒者は就職難で、就職できた先は長時間労働の高ノルマ低賃金のブラック企業。使い捨てられ、身体を壊し、自信をなくす。自尊心はずたずたに引き裂かれ引きこもる。高卒者は正社員になれるのは稀、大半が不安定な非正規社員となる。結婚できない若者たちを親が抱える。親は疲弊する。先日、若者の就業状況をNHKが取り上げていた。それによると、15歳〜39歳の働いていない(働けない、働かない)若者は331万人もいるそうだ。その若者たちの屈折したエネルギーはどこに向かうのだろうか。これはもちろん若者たちだけの問題ではない。労働集約型産業が海外に生産拠点を移すことによって、日本では多くの労働者が職を失っている。産業の空洞化は零細企業や商店街を疲弊させ存続の危機にまで追い込み、地域の結束と活力を弱めている。それは伝統の継承をも危うくしている。世論調査において、参院選で重視する項目が「憲法」ではなく「景気や雇用」に置かれたことは然るべきことなのだ。しかし、自民党などはその原因に目を向けることなく、むしろその隙を突いて「公の秩序」を強調することになっている。

 私たちがこのような問題を考えるとき、どのようなスタンスで対処すればよいのだろうか。「日本国憲法」の絶対変えてはならないところはどこなのか。そこをはっきりさせることだ。現憲法は必ずしも完全無欠の憲法とはいえない。だから、自分たちはどこをどうしたいのか、対案を持っておくべきである。もし、現行憲法に指一本触れてはならない、というかたくなな姿勢でいくならば、国民の理解が得られるとは思えない。現行憲法は、「大日本帝国憲法」を改正した形をとっているので、移行に伴う措置と時代を反映した語彙が使われている。例えば「詔勅」という言葉、これは今、宮内庁でも使っていない(「おことば」にしている)。国民主権にふさわしくない言葉だからだ。これはほんの一例にすぎない。政治学者や言語学者が全条文を対象に、文意に添った見直しをするならば、さらに親しみやすい時代にあった文章に生まれ変わることだろう。憲法擁護派はそういう作業こそ改憲派にとって蟻の一穴になると警戒するのだろうが、改憲派がその機会に現憲法を骨抜きにしようとするのであれば、護憲派はさらに民主的な内容のものを対置すればよいのである。まさに、そこに真の「憲法論議」が展開される。「護憲派」という言われ方も実に受身な印象だ。今は、いわゆる「改憲派」から挑戦状をたたきつけられているのである。それならばこちらも積極的に対応して、国の隅々まで憲法理念を浸透させるのだ、という意気込みで闘えばいいのではないだろうか。

 今の高校生は、憲法を改正すべきだと思っているほうが多いそうだ。それもそのはずである。自民党の長期政権は一貫して現憲法を軽視し、骨抜きにしようとしてきた。だから、学校教育で日本国憲法の神髄を教えるわけがない。それを積極的に教える教師は「赤」とされてきた。仮に熱心な教師がいたとしても、家に帰れば親の考えやマスコミをはじめとする社会の考え方に圧倒されてしまう。現憲法が「理想主義」であることは事実である。日本の民衆はいまだかつて自らの手で国を造ったという実感がない。「明治維新」にせよ、戦後の改革にせよ、絶対的権威に依拠した「上からの革命」だった。フランス国歌の「ラ・マルセーズ」やアメリカの国歌、中国の国歌を聴いていると民衆の自信と誇りが伝わってくるが、「君が代」にはそれがない。現在の国民意識が、「日本国憲法」の理念にふさわしいレベルに達しているかといえば疑問である。それは、自らがこの憲法を作ったのだという実感がないことと、国が意識的に憲法理念の浸透を避けてきたことにある。そして、日本を取り巻く厳しい状況が日本国憲法への確信を揺るがす動機になっている。ここに「改憲論議」の難しさがある。

 では、どうすればよいか、「平和主義」を支える眼目の第九条について考えてみよう。「平和主義」の基本理念についてはすでに前編で述べた。その基本理念の基調である、「戦争の放棄」は強度の差こそあれ国民の意思と考えていいだろう。しかし、そこに「防衛戦争」を含めるかどうかに異論があるわけだ。つまり、「自衛権」があるというわけである。しかし古今東西、「戦争」は常に防衛とか自衛の名の下に行なわれてきた。だから、「戦争を放棄」するということは防衛も自衛もしないということになる。しかし、問題は、防衛も自衛も武力を前提に考えていることにあるのだ。つまり、「戦争をしない」ということは「武力を使わない」ということにすればよいわけである。しかし国民はこう言うであろう。「武力を持った国、しかも軍備をますます増強している国を前にして無防備では攻められるでしょう」。今の時代は無防備な国に攻め込むなどということは許されることではないし、国際的な監視と制裁の機能がある。仮に攻め込んだとするならば、攻め込んだ国は破滅の道に向かうであろう。むしろ、すでに述べたように、戦争はお互いに武力を持つから起きるのである。安保条約でアメリカに守ってもらっているから安心なのではなく、かえって危険なのである。安保論議が難しいのはこういうところまで意識を高めなければならないからだ。

 しかし、防衛・自衛というのは、なにも武力に頼らなければならないというものでもない。今は国際的に多くの非暴力闘争の経験が積まれている。「アラブの春」で実証したように、国内闘争だけでなく国際的な連帯のうちにも闘われるようになっている。陸続きのアジア、アフリカ、ヨーロッパあるいはアメリカ諸国と違って海洋国の日本は独自の戦術を研究しなければならない面はあるが、現実的な課題にのせる必要はある。武力を持つよりも困難な道かもしれない。しかし、「平和主義」を堅持しようとするならば、避けては通れない道なのではないだろうか。非武装中立の思想と非暴力闘争の戦術を組み合わせた研究を、「護憲派」といわれる陣容は是非進めるべきである。そうしてこそ国民が納得する、説得力のある政策になるのではないか。(ジーン・シャープ氏の『独裁体制から民主主義へ』(瀧口範子訳、2012年8月、ちくま学芸文庫)には具体的な「非暴力行動198の方法」が載っているので一読をお勧めしたい。)

 さて、次に自衛隊の存在について考える。現在、現役自衛隊員は24万人、防衛費は5兆円弱である。そして、戦闘機は370機、戦車は880両、その他護衛艦、潜水艦、装甲車、ミサイル等々各種の兵器と機材を装備している。これだけの戦力を保持していて軍隊ではないと誰が言えるだろうか。現に国際法上は軍隊として扱われている。明らかに憲法違反の実態である。だからこそまったく逆に、憲法を変えて自衛隊を認知しましょうというのが改憲派の言い分である。そのついでに、「国防軍」と名称を変え、名実ともに軍隊として再出発し、国連軍の一翼を担い、アメリカ軍とも共同作戦を展開しようとしているのである。国連軍やアメリカ軍と共同行動をとることは自衛の範囲を逸脱するばかりでなく戦争をしに行くということになる。
 しかし国民は、自衛隊や日米安保があるから安心して暮らせるのだと考えているようだ。2年前の東日本大震災では10万9000人の自衛隊員が災害救助活動に携わり、現地の人々や被災者に大変感謝された。自衛隊員の方々も嬉しかったと思う。人を殺して怨まれるのではなく、人を助けて感謝されるのだから。アメリカ軍もこの機を逃さず、日本政府を超えたところで、ヘリを使った独自の活動を展開し、被災者に喜ばれ、隣人政策を有効にアピールできたようだ。先日、福島で行なわれた東北六魂祭では、近くの松島基地所属のブルーインパルスが上空で展示飛行を行ない、会場の観衆は大歓声を上げていた。もちろん会場には自衛隊員募集のテントが設置されていた。

 このように国民に親しまれ、頼りにされている自衛隊を完全になくすことは不可能だろう。それはそれでよいと思う。ただ、武器を持たない組織にすればよいのだ。つまり、災害救助隊に衣替えするのである。と同時に自衛隊の組織力を生かし、先ほど述べた非武装の国民自衛隊に編成替えするのである。24万人もいる自衛隊員の多くは家族とも離れ、厳しい環境の中で困難な仕事に立ち向かっている。この人たちの職を奪ってはならないし、人を殺させてもいけない。むしろ、前よりも意義のある仕事に就けるならば、本人ばかりでなく家族を含めたすべての人の喜びにもなるはずである。そうすれば第9条を変える必要もないし、アメリカにいてもらう必要もない。基地はすべて返還してもらおう。これで戦争をすることもなくなるのだ。余った費用は教育や社会福祉に使えばいい。そして平和産業を発展させよう。これが、憲法を発展的に考える私の方策である。日本共産党をはじめ良心的な方々の賢明なる方策を期待する。

 この原稿を書くにあたって、愛敬浩二氏コーディネート『対論 憲法を/憲法からラディカルに考える』(法律文化社、2008年)は自分の考えを確認し、整理する上で大変参考になった。この場を借りて紹介者に感謝するものである。


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