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zoom RSS 鑑賞録(1) 映画「武士の一分」(山田洋次監督)

<<   作成日時 : 2007/02/16 14:41   >>

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先日、遅まきながら映画「武士の一分」を観て来た。藤沢周平の原作で山田洋次が監督した映画は三つあるが、その中、「たそがれ清兵衛」とこれの二つを観たことになる。

内容はすでにご存知の方も多いことと思うが、ざっとおさらいすると、舞台はいつもの藤沢作品、小藩の下級武士三村新之丞の夫婦愛と復讐の物語である。
家禄30石の毒見役三村(木村拓哉)はある日毒見に出されたツブ貝を食べて失明する。失明ということであればもう役に立たないということで家禄が没収されるだろうと親戚一同は心配する。そこで妻の加世(檀れい)は親戚からも促され、嫁に来る前からの知り合いでもあった番頭の島田藤弥(坂東三津五郎)のところに相談に行く。というのは数日前に道で行き会った島田に「いつでも相談に乗る、遠慮はいらぬ」と声を掛けられていたからである。島田は殿に進言することを約束して加世の身体を求める。数日後、家禄はそのまま保持されることが伝わり新之丞も周囲も喜ぶ。しかし加世と島田が待合で逢っていることを知ったことからそれが「妻を盗み取った男の口添えでたかだか三十石を救われて喜んでいた俺は犬畜生にも劣る男だ」と悔やみかつ怒り、加世を離縁し島田への復讐に燃える(たとえ上士といえども許せない。「武士の一分」である)。その後、家禄保持は殿の一存で決まったものであり、島田の進言はなかったことが分かり、「加世は騙された」と島田への復讐はますます募る。新之丞は島田に「果し状」を送り川原で決闘をする。相手は免許皆伝の使い手、こちらは腕に覚えがあるとはいえ盲目の身。その時、剣の師匠の言葉が浮かぶ。「ともに死するをもって、心となす。勝ちはそのなかにあり。必死すなわち生くるなり」。島田は新之丞に片腕を斬られ動けなくなったが新之丞は止めを刺さずに引き上げる。島田は島田なりの「武士の一分」で、決闘した相手の名前を言わずに自害する。新之丞は独りつぶやく。妻を離縁したのも島田を自害に導いたのも結局は自分が中間の徳平(笹野高史)に加世の後を付けさせたからなのだ。「知らないアホだったらよかったのか。そんなアホな」。この言葉は現代に強く響く、私の好きな言葉だ。最後は、徳平に導かれて飯炊き女として三村家に入った加世が新之丞の好きな芋柄の煮物を出して加世だと分かりハッピーエンドである。

それにしても広式番〔毒見目付〕の樋口作之助(小林稔侍)が責任を取らされて切腹するとか、仕事で失明しながら労災どころか家禄没収の心配までしなければならない虫けら同然の身分制度とは一体何だ。「いやはや」。だからこそ”一寸の虫にも五分の魂”である「武士の一分」という言葉が活きるのであろう。

この映画は男の立場から見ても女の立場から見てもよく分かる映画だと思う。映画の「作り」も細かなことは専門家に任せるとしても、よく練られた映画だと思う。ただ、一つ気になったことがある。それは三村家の室内で新之丞と妻・加世が会話する冒頭のシーンである。温かな夫婦の日常を表現するところであるが、加世の会話の語尾に付く、「〜でがんすか」(方言?)が綺麗な顔の「檀れい」にはふさわしくないし、違和感があった。これはシナリオに問題があるのか演技に問題があるのか検討すべき点だ。それにしてもこの映画は、これから「映画人」を志す若い人々に格好の「教科書」ともいえる映画だ。丁寧な映画作りの山田洋次監督、いまだ健在なり。


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武士の一分 豪華版(S) (5万セット限定 3大特典付)
山田洋次監督による『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』に続く、藤沢周平原作小説の映画化。役目のため失明した下級武士を支える妻と中間、そして一分を通すため復讐に挑む侍の姿を描く。主役の武士に木村拓哉。その妻に映画初出演の壇れいが扮し、新鮮な存在感を見せている。 ...続きを見る
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